こんにちは
今、向かってるんですが、途中で具合悪くなって休憩してたら時間に間に合わないかもです...
遅れちゃったら、施術ってしていただけるんでしょうか?(。>д<)
というメールに、
こんにちは。ご連絡ありがとうございます。
45分しかないので、施術時間が短くなるもしくはあまりに遅れてしまうとできなくなります。
それよりも体調が悪いみたいですが、大丈夫ですか?
本日はキャンセルになさいますか?
というメールを担当の須田が返している。
遅れてお越しになったが、須田が特急で全て施術し終わったあと、話をした。
どうもパニック障害の気があるそうだ。途中で気分が悪くなって電車を降りて遅れたのだ。埼京線に乗るとそうなりやすいそう。でもいつもじゃない、という。
帰りの電車に乗るのが心配そうで、それに対して、いつもの私の話し方だ。「パニックになるの前提で電車に乗ればいいじゃん。パニックになったら電車を降りればいいよ。ゲロ袋も持って。やってみて、試してみてだよ。どうなったかメールして!」と笑って送り出した。
その後何もメールがなかったので、須田が
こんにちは?。ナカメサロン須田です。
先日はご来店ありがとうございました。
帰りの電車どうだったかな?と思って。
気になりましてメールしました。
とメールしたら、
火曜日はお世話になりました♪
昨日、帰宅が遅くて寝てしまいましてメールしなくてすみませんでした?( ;∀;)
でも、お腹がすいてたので24時に少しだけ、お肉食べてしまいました...
火曜日の帰りは、なんと、まったくパニックにならずに帰宅できました!!
ビックリしましたー( ゜o゜)
松田先生に教えてもらったよう、スイッチを探してみます!
気にかけていただいて、ありがとうございます♪
また、来週お世話になります(*´ω`*)
とメールが返ってきた。
やはりと思う。
こうした問題も、私が考える時に、いつも仮説として使う「アタマ・ココロ・カラダ」モデルの応用。
カラダを損ねるような刺激でないかぎり、カラダはココロに引っ張られる。意識できるココロと意識できない潜在意識のココロに分かれる。
地図に喩えると、意識できるココロが『図』、潜在意識のココロが『地』である。『地』である潜在意識の背景の中に、スポットが当たったように『図』である意識が浮かんでいる。そんなイメージである。
この『図』に意味を与えるのがアタマである。アタマはつむいだ物語のように意味の世界を持っている。しかも意味の世界は人によって違う。ヒトはその意味の世界にそって考えて、『図』に意味を与えるのである。
ココロにある記憶は、体験したことの記憶、エピソード記憶だ。エピソードはかつて注意が向いたことのあるもので作られているから、実際とはかけ離れている。一般意味論で「地図は現地でない」といわれるのがこのことだ。
例えば、近くにある時計を見て欲しい。何時だろうか?それは意識できるだろう。けれど、注意を向けなかった時計のデザインを思い出してくれと言われても、思い出せるものではない。エピソード記憶とは、いかに曖昧なものか。そんな記憶でココロが作られている。
だが、そんなココロがカラダを引っ張る。本来的には曖昧で揺れ動きやすいココロを固くしているのはアタマが付与する意味である。
ココロが固ければ、他人には見えているのに本人には見えない、というようなことが起こる。固定観念とはそんなものだ。
でも、固定観念を破るのは簡単。
意味の世界はコトバで作られているから、反対のコトバで、反対側の意味の世界を作ればいい。意味の世界には、支える前提がある。それをひっくり返せば、意味の世界が簡単にヒックリ返る。
そして、ひっくり返して反対になった意味の世界を、カラダを使って体験して体感していけばいい。
例えば、
「人に嫌われたくないと思うから、人が自分をどう見ているか気になる。人が思うのは好きずき。そんなのコントロールできない。嫌いになるのもその人の勝手。それは、その人の問題で、自分の問題じゃない。他人の問題は解いても無駄。嫌われてもいいじゃん、と思うと楽になるよ。人間関係の悩みが消える」というようなことをスタッフによく言う。
「嫌われたくない」と「嫌われてもいい」では、意味の世界の前提が違う。意味が違うから、個々のエピソードの意味も逆になる。エピソードには感情が付いて回るから、その感情も逆になる。少なくとも苦しいや辛いと感じていたことが、当たり前になる。当たり前なら楽だろう。
対人関係を気にしているというこのお客さまにも、そんな話をしたのだ。なんか楽になった、と言って帰られたのだが、やはり
火曜日の帰りは、なんと、まったくパニックにならずに帰宅できました!!
ビックリしましたー( ゜o゜)
となった。
あとは、埼京線の電車の中で、パニックにさせるサインやスイッチを探せばいい。
松田先生に教えてもらったよう、スイッチを探してみます!
となれば、埼京線に乗るのが楽しみになるだろう。ああ、このスイッチで、私はパニックになるのだ、と、研究的な態度で電車に乗ればいいのである。
ダイエットも同じこと。私にとっては、この考え方の応用の分野が違うだけだ。
ダイエットには意志力が必要。絶対ではなく、ちょっとくらいは必要と考えるお客さまも、ナカメダイエットの意味を取り違えている。それでは、意志力が必要な局面が見えてしまうだろう。
そんな人は、ナカメルールから外れる黒丸体験する度に、後悔し、反省し、決意する。スタッフに懺悔する人もいる。わざわざ気にしているのである。黒丸体験の意味が変らない限り、気になって仕方がないだろう。いつまでも堂々巡りになるし、リバウンドは保証されたようなものだ。
ナカメダイエットには我慢も努力も頑張りもいらない。その意味の世界を体感していないからだ。
ナカメルールという、ナカメダイエットの前提となる意味の世界を体感するには「やってみて、試してみて」で、カラダで実感していくしかない。意味が変った後のエピソード記憶を溜めていくだけである。
※これは個人の感想です。成果や効果を保証するものではありません。